夜王子と月の姫
君が星こそ悲しけれ。
原曲を聴いたのが15年前とか鳥肌が立ちそう。
時の流れは早い。チッチの方も好き。
疲労で寝れない夜にふと思ったことを書いておこうと思う。
今年もあと3週間。
今年は激動の1年だった。楽しいことも悲しいことも嬉しいことも辛いこともたくさんあった。またこうやって今年も歳を重ねていく。
私は年末のとても忙しい時期に生まれた。
生まれてしばらくしてつむじが2つあることに祖父が気づき、親戚中大騒ぎしたらしい。昔の人は迷信が好きなのだろうか、それとも私の家系が好きなのか。(ちなみにつむじが2つある人は日本人の7%しかいないらしい)
200年ぶりの女の子だったそうで、これまた大騒ぎだったそうだ。
小さな頃から大事に育ててもらい、今思い返すと完全なる箱入り娘だった。(だった、が重要)
お年玉は毎年20万近く貰っていたし、お祝い事になると数十万のお小遣いをくれるような激甘な曽祖父母、祖父母であったがそんな中、父と母はとても厳しかった。
厳格という意味ではなく、社会に出ても自立してやっていけるように母は言葉遣い、お箸の綺麗な持ち方などの礼儀作法や人付き合いの大切さを、父は自分でお金を稼ぐことの大切さを早いうちから教えてくれた。
私はとにかく落ち着きがなかった。じっとしていられない、突然家を飛び出して庭を裸足で走り回る、ご飯を食べるのに何時間もかかる。あり得ない大怪我をする。多動性、注意欠陥、衝動性。
そんな私に書道を習わせてくれた。あの私があのシーンとした空間で長時間正座をするなんて誰もできやしないと思っていたと思う。
母は雨の日だろうと風の日だろうとなんだろうと嫌がる私を抱えて無理矢理通わせたのだ。
それがなんと15年も続いたのだ。おかげさまで少しの時間なら落ち着いていられるようになったし、忍耐力もついた。県のコンクールで最優秀賞をとるまでに上達した。なんと言っても大人になってからどこへ行っても字を褒められる。それが未だに嬉しい。
つむじが2つある子のおかげで、また祖父からの助言もあり、たくさんの習い事をさせられた。「この子は天才だから何でもやらせろ。どこかで絶対に才能が開花するから。」と父母に言い続けていた。(そしてその張本人である私は才能が開花したわけでもなく現在普通の会社員)
書道(15年)、ピアノ(8年)、日本舞踊(2日)、茶道(2日)、バイオリン(1ヶ月)、
スイミング(2年)、英会話(3年)、オペラ(半年)。きっとまだまだあった気がする。
書道と美術、音楽だけは小学生から高校生に至るまでオール5だった。私に芸術分野においては自信をつけさせてくれた。
一方、父は高校生になった瞬間に「勉強はできなくていいししなくてもいいから、アルバイトはした方がいい」と言い放ったのだ。「最低限のお小遣いは渡すけど、足りない分は祖父母から貰うんじゃなく自分で稼げ。稼ぐことがどれだけ大変なのか高校生のうちに知っておけ」スタンスだった。高校1年生の夏休みから父の知り合いが店長をやっているファーストフード店を父から紹介されて働かせてもらうことになった。
当時最低時給の680円。確かこのくらいだったと思う。学校帰りの平日は4時間、土日は7時間ほど。週3回バイトをした。髪を染めようとスカートを短くしようと彼氏とイチャイチャしようと怒らなかった父も、バイトをズル休みすることだけは許してくれなかった。
寡黙で無表情な父なので直接そう言われたわけではないが、背中からそれが滲み出ていて怖くてズル休みなどできなかった。
結局私は高校3年間、卒業するまでずっとアルバイトをしていた。休んだこともなかった。自分で入れたシフトは責任を持って絶対に休むことなく行っていた。そしてアルバイトしながらセンター試験も大学受験もしたのだ。謎な高校生だ。
高校生のうちから働いたことによって、高校では接することのない人との接点が生まれた。先輩である大学生、フリーター、お客様であるサラリーマンやOLさん、そして子供やおじいちゃんおばあちゃん、様々な不自由を抱える人たち、そしてのちに生活指導の先生まで来店された。(幸いなことにその時は目を瞑ってくれた)
この時の経験は自分の糧になっているし、自分を作ってくれたと思っている。
高校3年の10月までは就職する予定だったのに大学生の話を聞いたら突然大学に行きたくなり、疲れたサラリーマンやOLさんを見るたびこんなふうになりたくないな…と思ったり、逆にこんなOLさんになりたいと思ったり。子供と遊ぶと将来子供が欲しいと思ったり、仲のいいおじいちゃんおばあちゃんがくるとこんな夫婦になりたいと思ったし、筆談で接客することが恥ずかしくなり手話の勉強を始めたり、夏休みに突然近所にある福祉施設に押しかけてお手伝いさせてくれと言い、受け入れてもらって不定期にボランティア活動をしてみたり。
とにかく勉強以外のたくさんのことを学べた。父のおかげだと思っている。きっとお金を稼ぐことの大変さを知ってもらいたかったということと、早いうちから社会に揉まれて現実を知れということだったと勝手に解釈している。(のちに聞いたところ、高校卒業したら就職に進むと思ってたから早めに働いた方がいいと思ったからと言っていたが、おそらくこれは建前だ)
こんな両親の元での18年間の下積みがあったから今がある。社会生活の中で役立つことがとても多い。書道を15年もやっていなかったら今の仕事を10年も続けていられなかっただろうし、高校生でアルバイトしていなかったら東京で一人暮らしも難しかっただろうし、今の仕事である接客業を選んでいなかったと思う。
ひとつだけ心残りなのは、『つむじが2つあると天才説』を証明できなかったことだ。
ただ、私は将来飴細工職人になりたいと密かに夢見ているのでそこで開花すると信じておこう。
去年あたりまでは『自分の』誕生日が楽しみで仕方なかった。人からお祝いしてもらえ、主役になれる日だからだ。
しかし今年はなぜか全然楽しみではない。また1つ歳をとるのか、くらいにしか感じない。しかしLOVELESSのワンピースと六歌仙は楽しみだ。(結果楽しみなのか、というツッコミは入れていただいても構わない)
今年はこんな私に育ててくれた両親に感謝の気持ちを込めてプレゼントする日にしようと思う。突然すぎて気持ち悪がられそうだ。
おてんば過ぎて目を離せない天邪鬼じゃじゃ馬娘が、今となっては立派ではないが人の上に立つ仕事に就けている。そしてそのお金で美味しいものが食べれたり、欲しいものを買えている。
晴れやかな気持ちで寝れそうだ。
ありがとう。
カートとコートニー
ギブス。当時は聴こうとも思わなかった曲。(中学生くらいだったと記憶している)
最近BLUE ENCOUNTがカバーをして聴いて原曲の虜になった。歌詞もメロディもなにもかもが素晴らしい。
甘ったるい恋愛の曲にはめっぽう共感できないのだが、この曲はなぜかしっくりくる。
歌詞自体は激甘なのに、力強く歌っているからこそ聴けるのかもしれない。
あなたはわたしの写真を撮りたがるけどわたしが古くなるのが嫌だから撮られたくない。
あなたは絶対というけど冷めてしまっちゃえば嘘になるからわたしは絶対って言葉は嫌い。
高校生の女の子が『だってカートみたいだからあたしがコートニーじゃない?』って。
すごい話だ。私なんて32歳でやっとこの言葉の意味がわかったというかシチュエーションが理解できたのだ。
嫌味をたくさん言っているように聞こえるが、きっとこの2人はとてつもなく愛し合っていて、甘い時間が流れていることは言うまでもない。戯れあっているのだろう。
そしてカートとコートニーのところで姐さん女房的な歳上の彼女ということまでわかる。
歌詞自体はそんなに長くないし、曲自体も短めだ。でも短い歌詞の中に2人の世界観が誰でも想像できるようになっている。
グッとくる。彼女は天才なのだろう。
昔はこういう曲を聴いてもなにも感じなかった。恋愛の曲に関しては「ふーん」ぐらいで興味がなかった。だが最近共感できるようになってきた。(成長)それは自分がたくさん経験してきてその場面場面で共感できるシチュエーションが増えたからなのだろうか。この曲に出てくるいじらしい女性がすごく好きなのだ。AメロBメロではいじらしくて一見ドSなのだけどサビで急に本当はドMでとっても優しくて愛に溢れ出すのだ。それが自分と重なるからいい曲と認識したのだろうか。(私は決して優しくもなければ愛に溢れているわけでもないが)
好きな人に嫌味を言ってしまったり、意地悪をして喜んでしまったり、『絶対』って言葉を根っこから信じていなかったり。でもそばにいて欲しい、ぎゅっとしてて欲しい。
私自身、この先愛に溺れてしまうような恋愛をするのか。
一緒にいる時間は有限だ。いつかは別れてしまうし、会えなくなってしまう。気持ちが途絶えてしまうことが怖くてたまらないのだ。そして何より、待ち受けているのはカートとコートニーのような『死』という別れの時だ。
そして椎名林檎とは全く関係ないが、コートニーが理想の女性なのだ。
女としての色気を持ちながら、男に媚びず、自由奔放で、セクシーで、芯の強い存在であり続けるファッショナブルな存在。美しすぎるケダモノ。私はこういう女性に強い憧れを抱いている。自分もそうでありたいと思っている。
私自身、どちらかといえば甘い顔をしている。それをとてもコンプレックスに思っている。もっと切れ目のキリッとした芯のある強そうな顔に生まれたかった。なので、メイクなどで個性的で強そうに見えるようなクールな印象になるよう努力している。先日有名なカラーリストの方にお会いする機会があったのだが、その際に「あなたはすっごく特殊な雰囲気を持ってるわね」と30人以上いる空間でわざわざ私のところに歩み寄ってきて言われた。何千人以上見てきているプロの方にも驚かれてしまった。どうやらかなり珍しいらしい。
「顔立ちは完全にフェミニンで可愛らしい春顔なのに、あなたはそれを好きだと思っていない。だから強く芯のあるクールな女性に見えるようメイクやファッションを選んでるのね。そしてあなたは何にも型にはまらない。ブルベ、イエベ両方の要素も持ってるし、春夏秋冬全部持ってる。そしてフェミニンな可愛らしい春顔の人は黒に負けるのにあなたは黒に負けない。すごく魅力的ね。あまりいないわよ。」と仰っていた。
強いて言うなら上半身秋、下半身は春がいいというよくわからないアドバイスをいただいた。
やはり自分が持ってないものに憧れを抱くのだ。椎名林檎やアイナのような力強く掠れたハスキーボイスや、コートニーのような破天荒で大胆でかっこいい女性に。いくら自分がフェミニンな顔立ちだろうと私は一生かっこいい女性でいたいのだ。
そして色気を持ちながらセクシーで自由奔放な誰にも捕まえられないような魅力的な女性でいたい。そして最後の最後まで愛する人を愛しぬく強さを持った女性になりたい。
渋谷
昨日は1ヶ月に1度のヘアメンテの日だった。
IGORAのペンタを8トーンでがっつり入れてもらってきた。特殊な薬剤なので、色落ちしない代わりに一生赤髪を続けなければいけないものだ。やはりメリットを得るにはデメリットは飲み込まなければならない。私は仕事柄、色相は熟知している。そりゃあ赤から緑やブルーにするのは無理な話だ。ブリーチして赤みを抹殺しない限り一生赤髪を覚悟している。
そして美容師さんやアシスタントさんからものすごく大絶賛されてウッキウキで待ち合わせ場所、渋谷へ向かった。重ためマッシュショートにボルドーカラー、マットな赤リップ。とてもモードな印象になった。しかしその後会った人から「邦ロック勢みたい」と言われて空腹と相まって私は超絶不機嫌になったのだった。(その人曰くどうやら上手い褒め言葉がみつからなかったらしい)
まさしく地雷を踏まれたのだ。私も人の外見を褒めるときは気をつけようと思う。(今となっては実際はそんなに邦ロック勢という言葉は気にしていない)
私は渋谷が大好きだ。ファッションも音楽も映画もアートも好きだ。そんなカルチャーの中心である渋谷にPARCOが帰ってきた。渋谷PARCOといえば日本のカルチャー発祥の聖地だった。オープンしてまだ1週間しか経っていない土曜日の午後なので人で溢れていた。とてもじゃないがゆっくり買い物できるような空間ではなかった。ハイブランドばかり集めたフロアですら人でごった返していた。ブランディングもクソもない、と同情の気持ちでいっぱいだった。
私が好きなブランドも表参道のコンセプトショップに続いて渋谷PARCO店ができていたのだが、人がまるでセール品かのようにプロパーを触るのを見てすごく萎えてしまった。
物の価値をわからない人がペタペタ触るのは私は苦手だ。やはり私はファッションが好きなんだと再確認できた瞬間だった。デザイナーがどんな思いを込めて作った物なのか、素材選びにもかなりこだわっているブランドだからこそお客様にも大切に扱ってほしいのだ。(急に売り手口調)
いくら展示品だからと言っても想いはある。小物であればどのようにディスプレイしたら雰囲気がでるか、洋服であれば色合い、素材、どういう組み合わせで掛けていたらお客様がコーディネートを考えやすいかなどちゃんと考えているのだ。私が好きなとてもこだわりを持って作られたブランドの商品に気軽にペタペタ触らないで、と思って萎えてしまった。
考えすぎなのかもしれないが、そういう視点で見てしまうクセがある。
ただ、家に帰ってからよくよく考えてみたところ、PARCOのその私の好きなブランドは表参道のコンセプトショップよりも品揃えも少なく、一般ウケするようなものしか取り扱っていなかった。今お店は物を売る場所でもあり、ブランド発信をする場所でもある、と考えてみればただ単に展示スペースとして出資しているということも考えられる。そこで興味を持ったお客様を本店の方に誘導するのだろう。勝手にそう考えて自分を無理矢理納得させた。
ファッションの話は延々としてしまうのでまた書こうと思う。
そして音楽。渋谷はあらゆる音楽の箱がある。
そこら中でいろんな音楽が鳴り響いている。私はクラブもライブハウスにも通っていた人間なので渋谷は最高な場所なのだ。そして久々に行った渋谷には新しい箱がたくさんできていた。それぞれの箱にはそれぞれの思い出があり、その前を通るたびにやけてしまった。今テレビで見るような大きなバンドも絶対と言って良いほど渋谷で活動していた。音楽と渋谷は切っても切れない関係なのだ。昔よく歩いた道を懐かしみながら歩いた。ただもうこの辺りで空腹の限界で機嫌は非常に最悪になった為、散歩は終了した。
BiSHを大熱唱した後帰路についたのだが、吉祥寺のホームで踊りながら歌って電車を待っていたところ、「恥ずかしいからやめて」と言われ
それでも踊り続けていたところ「まあ、土曜の夜だし酔っ払いだと思われる程度だからいっか」との許可が下りたので全力でプロミスザスターを踊った。もうこの辺りには疲労とアドレナリンが相まってテンションもおかしくなっていた。とてもいい休日であった。
心残りといえば、人が多すぎてPARCOのアートがみれなかったこと。(あとは私の機嫌も原因である)オープニングが落ち着いて入場制限などもなくなったころ、ゆっくり見に行きたいと思う。
やはり渋谷はいくつになっても好きな街だ。
12月
『やがて訪れたよね さよならの声 忘れはしないよ』
すごくいい。
さよなら、おやすみ、また明日。すごく好き。
こういう季節になると寂しさが嬉しくなる。
『寂しさが嬉しい』矛盾してるが、私の中では立派な感情なのだ。寂しいより恋しいの方が正確なのかもしれない。
寒さは寂しさを強増させる。それが嬉しい。
決してネガティブなことがあったわけではなく、毎年こんなことをこの時期に考えている。
クリスマスコフレを漁り、自分への誕生日プレゼントを探す。毎年のルーティンだ。そしてその過程でいつも寂しくなり嬉しくなる。
街ゆく人たちがクリスマスムードに浮かれている中で哀愁を抱えてる自分に酔っているのが好きなのだろう。
『みんなは浮かれて、誰かと寄り添って歩いているけど私は1人』ということに謎の優越感すら抱く。
1人が好きでずっと1人でいたいわけではない。私にも一緒にいたい人はいる。凪のお暇で出てきた『私には最終兵器がある』的な感じ。まぁ、その話はいい。
もちろん私も浮かれていた時期はあった。クリスマスあたりになるとそわそわしていた若かりし頃もあった。ただ、数年前に突然気付いたのだ。世間一般的なワクワクが欲しくてなぜかクリスマスに血迷ってディズニーランドに行ってしまったのだ。私にとってそれは地獄以外の何物でもなかった。あまりはっきり書くと批判になってしまうので避けたいが、キラキラが自分にとって痛くて大怪我をして帰宅した。
その辺りから私は無理してキラキラしなくてもいい、と思うようになった。(そもそもキラキラなんて歳はとっくに過ぎている)
周りの年末浮かれモードに流されずにいたいと思うことすらも最近思わなくなった。あくまで私は日常に過ぎない、と。
仕事柄、クリスマスや年末感を感じざるを得ないのだがそれは仕事モードの時だけでスイッチを切ることにしている。そしてそのスイッチを切ったときに寂しさがくるのだ。今年は暖冬なのにその時期が何となく早くきている気がする。
『私は独りだ』と思うことで得られる嬉しい感情。不思議だし周りからは共感してもらった記憶はない。でもすごく笑顔でたくさんの人や街を横目に歩いている。
きっと総じて私は哀愁漂う人やもの、場所や自分をこよなく愛しているのだと思う。音楽だってそう。そういうところにグッとくるのだ。クリスマスにぽつりと売れ残ったケーキ、捨てられた装飾、さよならの曲、マイナーコードとメジャーコードが散りばめられた曲、暗い映画、寂れた観覧車、雨の日、繁華街の路地裏、孤独を感じている自分、自分と同じように生きづらそうにしている人、すごく考えているけど無表情で口数少ない男性。
でも孤独を愛しているわけでもない。
ただ『何となく』なふわっとした『寂しさが嬉しい』という感情。そんな感情を持ちながらも手を繋ぎたいし、抱き合いたいし、人と繋がっていたいと思う。
矛盾だらけ。きっとこの先も変わらない気がする。
今年は誕生日に何を買おう。どこへ行こう。どんなショッパーを持って街を歩いて『寂しさが嬉しい』を感じようか。好きな季節がやっときた。
過去と未来と自分と今と
過去にも今にも思い出になったこと、思い出したくないこと、忘れたくないこと、忘れちゃいけないことがある。
沢山沢山ある。悔しくて悲しくて切なくて泣いたことも沢山ある。
素敵な出逢いもあったし、身がちぎれそうなさようならもあった。
どうしたって、矛盾を繰り返す私は、そのたびに自分がアホらしくなって、そのたびに誰かに、何かに救われた。
たまに、どうしようもなく世界に置いてきぼりにされたような気になることがある。
そういう時に限って空は青くて、生温い風が吹く。
街がどうしようもなく楽しそうに見えて、孤独ではないが、置いてかれて行く気がしたりする。焦りに苛まれる。
どうして?なぜ?どうやったら?なんだったの?なんて過去を乱暴に探る。誰かの、何かのせいにしようと、必死になって探す。
そのたびに、ふっと可笑しくなる。そこにあるのは、いつだって自分自身が生み出したものだと気付くから。
なんて、感傷にひたっている自分自身がまたなんかアホらしくなって、考えるのをやめて、気付けば眠りについて、また朝を迎える。単純なもので、目が覚めるとまたヘラヘラ笑ってたりもして、だからまた繰り返す。
決意と怠惰、完全に相反していて矛盾している。
どこか悲観的ではなく、そういうものなのかなって最近少し思う。
怠惰に対して喧嘩を売るように決意して、それを遮るのがまた自分。
HAVE→DO→BEのサイクルから抜け出したくて必死にBE→DO→HAVEの思考に無理やり切り替えるくせにまた同じことを繰り返す。そして忘れる。
誰と、何と戦う以前に、きっとずっとそうやって自分に啖呵切って生きてくんだろうな。
それって悪くないと今は思う。
過去と未来、理想と現実。
相反する二つを両手で抱えて、その間いる私はどこにいたって何をしたって、一人だ。誰かと分かち合えるわけではない。いつだって一人だ。ありのままとか、演技をしてるとか、どっちでも良い。何だっていい。
全部ひっくるめて、私だ。
ありがとう、ごめんね、おはよう、おやすみ、楽しい、悲しい、むかつく、嬉しい、感動、好き、嫌い、会いたい、会えない、寂しい、苦しい、後悔、決意、不安、期待、疲れた、卑しい、裏切り、絶望、希望、喪失、過去、未来。そんな全てでとっちらかった今がとても愛おしい。
隠さなくていい、忘れなくていい、捨てなくていい。
いや、隠してもいい、忘れてもいい、捨ててもいい。
どっちだっていい。
そうやって繰り返して今を生きている。
悲しみのあとに幸せもある。
泣いたとしても笑うことができる。
怒ったとしても許すことができる。
愛想笑いが本物の笑顔になることもある。
いつだって相反するものを両手に抱えてこれからも生きていくのだ。
そしてそんな自分とこれから何十年も付き合っていく。こういうことを考えていると自分は自分の感情に支配されただけの個体にしかすぎない。受け皿でしかない。自分の魂と別のところに自分がいるような気がする。不思議な感覚だ。
今晩こうやって考えていることも寝て起きたらどうでもよくなっているんだと思う。
そんな毎日が今は愛おしくてたまらない。
今を自分を過去を未来をもっともっと愛したい。
おやすみなさい。明日の朝また相反するおはようが言えますように。
Emoとの出会い〜高校生編〜
私のEmoとの出会いを書きたいと思う。
本当の原点を辿れば小学校時代にまで達してしまうので、それはやめておく。
高校生の頃、すでに音楽は好きだった。音楽の話をしよう、と思っても周りに誰1人として私が好きなジャンルを聴いている人はいなかった。
「音楽何聴くの?」の質問に何も答えられずにいた。いまだにこの質問はされて困る質問だ。
言ってしまえば派手な高校生だった。髪は金髪に染め、エクステ(古い)をつけ、つけまつげを瞬かせ、濃いメイクにミニスカート。とても音楽が好きな見た目ではなかった。
友達もたくさんいた。学校帰りにスタバ片手にプリクラを撮りまくっていた。至って普通のその辺にいる派手ないわゆるギャルな高校生だった。
そんな私がなぜEmoという目立たない地味なジャンルの音楽を聴くようになったのか。
それは自分でもわからない。
普段の過ごし方の中でもどこか満ち足りてなかった。違和感すら抱いていた。それは本質が根暗だからということは後に大人になってから気づくことになる。
周りのみんなが「美しい」とか「かっこいい」というものに全く共感できなかったのだ。そのあたりから自分の感性は一般的ではないと思い始めたのだった。テレビなども一切見ない高校生だった。当時流行っていた音楽の話になっても入っていけなかったし、共感できずに苦しんでいた。
「わかる〜超いいよね〜」の一言すら言えなかった。幸いにもこの頃よくあるような『ハブ』
にはされずに終わったが、明らかに感性が変わっていることは自他共に認めていた。
私は電車に乗って1時間以上かけて通学していた。途中駅で友人が降りるとすぐにイヤホンを取り出していた。一刻も早く自分の好きな音楽が聴きたかった。そして家に着くと自室のPCの前で音楽をひたすら漁っていた。そんな毎日を送ったいた。1人で音楽を漁る時間がとても幸せだった。
当時はまだEmoというジャンルができ始めた頃だったと記憶している。CDショップに行っても確か『オルタナ/エモ』と一括りにされていたと思う。
そして田舎に住んでいたこともあり、当然CDはあまり置いていなかった。通販でよくCDを取り寄せて購入していた。バイト代はほとんどCD代に消えていった。周りに共有できる人もいなかったので、そこで私はチャットやメッセンジャーを使い始めた。
そこである男性に出会った。東京在住、古着屋でのバイトの傍らバンド活動をしている22歳。「いかにも」な人だった。その人はこの辺りのジャンルにとても精通していた。毎日のように話しかけ、ひたすら音楽を教えてもらった。毎日家に帰り、PCを立ち上げ、メッセンジャーを立ち上げた際に彼がオンラインになっているかチェックするのが日課になっていった。最初は教えてもらう立場だったのが、私も自分から話をしたいがために私も教える立場になっていた。
後にこの方とは東京で上京後、はじめましてをすることになるのだが、わりかしこの界隈では有名なお方だった。そして彼は私を見てとても驚いていた。(相当な芋女子高生だと思っていたらしい)
当時学校ではバンドブームが起こっていた。
といっても誰もが知るようなバンドだ。
「邦楽ロック好きな人が◯組にいる」そんな噂が入ってくるたび話しかけに行った。
私「私OCEANLANEとか好きなんです!」
相手「...?俺は175R。知ってる?」
全く噛み合ってなかった。
「結構本格的に洋楽ロックが好きな人が◯組にいる」という話を聞いた時もそうだった。
相手「oasisとか知ってる?(知るわけないか、ドヤ)」
私「(知ってるし好きだけどそうじゃない)
し、知ってる!好きだよ!」
やはり全く話は噛み合わなかった。やはり自分は異常なんだと悟ってからは音楽の話を現実世界では封印するようになった。音楽何が好きか聞かれたら『レッチリ』とだけ言うよにしようと固く心に誓った。家に帰ってからのメッセンジャーだけが音楽を共有できる時間となった。
私のEmoの入り口はThe Get Up KidsとJimmy Eat World、そして当時タイムリーで全盛期であったFinchとHoobastankだった。
のちにOCEANLANEやComeback My Daughters、something corporate、Jack's Mannequin、SAOSINなどなど『Emo』の中でも様々なジャンルへと世界が広がっていった。もうここまでくるとピアノエモ、ポストロック、ポストハードコア、スクリーモなどの話にまで広がってキリがなくなってしまうのでこのへんで。
Emoとの出会いは私の中ではとても大きな出来事だった。多感な時期に自分の中の溢れ出てくるような感情を代弁してくれていた。
学校生活でのあれこれ、恋愛でのあれこれ、親とのあれこれ、バイト先でのあれこれ。
何もかも消化させてくれた。時に感傷に浸り泣くこともあった。時に涙を流しながら笑うこともあった。何よりも人間臭く、人間らしく、美しく、とても優しいのだ。モテないダサ男の叫びは私にとって癒しだった。
高校生で知ってしまったこの世界はとても居心地が良い。誰に共感してもらえなくてもいい。自分のものだけにしておきたいとすら思っていた。こんな高校時代を過ごしたので、大人になった今でも音楽だけではなく、映画や人に至るまで『エモい』もの、『エモい』人が好きになっていった。
こう振り返ってみると、今現在の人格もこの時期の感情や状況も影響している。人から共感を得られなくてもいい、自分さえ好きでいればそれでいい。誰に惑わされることなく、自分の好きなことだけをとことん突き詰めていく。誰にも理解してもらえなくても自分の中で熱く思っていることがある人は素敵だ。根暗なヲタクがタイプ。好きなことへの情熱が半端なく、勉強熱心でいたいし、そんな人が好き。そして天邪鬼。この辺りからひん曲がってくるが、みんながいい、と言っているものを素直に受け取れない、ミーハーでいたくない、変態、性格が悪い。
株が下がりそうなのでこのあたりで。
私は独特な自分の感性がすごく好きだ。
誰から理解されなくとも、理解されるための建前で生きていたくない。Emoから学んだ美しさや切なさ、儚さはこれからもずっと一緒に生きていくだろう。
そして話は戻るが、OCEANLANEとComeback My Daughtersのライブに何が何でも行くんだ、と東京への進学を決めた。
Emo大好き女子高生はその後大学に合格し、上京する。
上京後、さまざまな人に出会い、そのEmo好きは更に加速していく。
その話はまた今度書こうと思う。
鷺ノ宮LOCAL SOUND STYLE
LOCAL SOUND STYLE
男臭く、粗削り。なのに美しく儚い。
Japanese Emo。聴きやすいメロディラインの中に繊細でありながら力強いギター、そして何と言ってもこの美しすぎるハイトーンボーカル。私は大好きでもう数年聴き続けている。
先日、私は終電間際の西武線に揺られていた。
鷺ノ宮のアナウンスにイヤホンから流れる音楽をLOCAL SOUND STYLEに変えた。
私は鷺ノ宮にゆかりはない。行ったこともない。ただ、親しい人から聞いた思い出話やその場で過ごした青春時代の話を聞いただけですっかりエモーショナルな街、という認識になった。
私は周りの親しい友人や恋人などの思い出話を聞くのがとても好きだ。その人の過ごしてきた時間がどのようなものだったのか、その時どのような感情を抱いていたのか自分ごとのように想像してみる。するとより距離が高く感じたり、幸福感を感じることができる。恋人であったとしても過去の恋愛の話を聞くことですら好きである。嫉妬などの感情を生むためのものではなく、ただ純粋に思い出話を聞くのが好きだから知りたいのだ。(ここに関しては周囲から共感してもらえない。)
夢を追いかけて上京。同じ趣味を持ち、それぞれ日々を過ごしていた20代前半の男性2人。ひょんなことでネットで知り合い、偶然にも同じ街に住んでいた。それから意気投合し、仕事やバイト終わりに毎日鍵の開いた片方の家に上がってお互いの話をダラダラして話し終わったら帰る。1年のうち360日は会っていた。
話もまるで身がない他愛もない話だ。
好きな人ができただとか、好きな人のことが好きすぎてどうしようだとか、いい音楽見つけただとか、今日はこんなことがあっただとか。その当時にLOCAL SOUND STYLEを聴きながら夜な夜な語り合っていた。
そのうちお互いの人間関係も交わっていった。お互いの友人が加わり、彼女が加わり、その2人を中心にその輪は少し広がっていった。そしたひょんなことでのちに私も2人の人間関係に入ることになった。
人との出会いは奇跡だ。同じ街に住んでいるのに、知り合っていなければ駅ですれ違っても気づかない。それが少しの接点で一気にそれぞれの生活が身近になる。
そのうちお互いに別々の街に住むことになり、会うことも少なくなり、疎遠になりつつあった。1人は東京から600キロ以上離れた街へと引っ越していった。お互いにまた新たな人生が始まっていった。2人は30代半ばになり、お互いに結婚し、子供が産まれ、『あの頃は楽しかったなぁ』と思い出す程度。口に出すことはなくなっていった。
LOCAL SOUND STYLEも2011年を最後に活動を休止していた。
そんな思い出話を聞いて私はすっかりその2人が過ごした鷺ノ宮を気に入った。(もう一度書くが、降りたことはない)
2人にとってLOCAL SOUND STYLEは鷺ノ宮の思い出だった。私自身にとってLOCAL SOUND STYLEは神泉の思い出なのだ。この話はまた機会があれば書こうと思う。
そして、この物語には続きがあった。
2019/10/28 止まっていた時が動き出した。8年ぶりにLOCAL SOUND STYLEが始動したのだ。
私自身のLOCAL SOUND STYLE再始動への気持ちを書きたいが、この話は私ではなく2人が主人公なのでやめておく。
疎遠になっていた2人もやはりこのことばかりは連絡を取り合っていた。数年ぶりの再会の口実には十分すぎる理由であった。私はそのやりとりを知ってとても嬉しく思った。男性は女性に比べて口数が少ない。そしてこの2人はとても穏やかなので、きっと軽く言葉少なく連絡を取り合ったのだろう。それでもその一言二言にそれぞれの気持ちが滲んでいたことは想像できる。(一方で私は賑やかでさらに興奮すると語彙力が普段以上になくなるので、やばいすごいどうしようしか言えていなかった)
やはり音楽は素晴らしい。そう改めて思った出来事だった。ただ娯楽として聴くだけでなく、こうやって人の再会を助けてくれる。
私はこの2人をそれぞれ知っているが、2人が会っている姿、一緒にいる姿を見たことがない。
実際にこの鷺ノ宮LOCAL SOUND STYLEの話を双方から聞ける日を心待ちにしている。
2人の思い出を私がまるでそこにいたかのように微笑みながら話を聞く姿は安易に想像できる。
きっと私にとっても大切な思い出になることだろう。
動き出してくれてありがとう。と心から伝えたい。