勘違いして生きること
もっと勘違いして生きていたいと思うようになった。若い頃は勘違いしかしていなかった。どこからか湧き出てくる根拠のない自信しかなかった。そんなことを思い出させてくれる曲がこの曲だ。
My Hair is Bad 優しさの行方
中二病だ。(褒め言葉)
今回書くことと少し趣旨は異なるが、好きな歌詞が潜んでいる。だから好きな曲だ。
若い頃は10センチ程あるヒールをコツコツ鳴らして歩いている自分の脚はブエナビスタの脚のように美しい、だとか、
好きな人の前で泣く時、鏡に映る自分を想像し、切なそうに微笑みながら美しく涙を流す『ジョーブラックをよろしく』のクレア・フォーラニのように今私は泣いていて、相手は少しグッときているのだろう、などと心底気持ち悪い自信を持っていた。(こういう人をナルシストと言うのだろう。)
今では社会の荒波に揉まれに揉まれて、自分のことを俯瞰的に見ることができるようになった。自分を"正確な"物差しで測れるようになったのだ。クレア・フォーラニがうんちゃらかんちゃら言っていた時分の物差しは1cmが5mくらいあった。JIS規格なんてもっての他。規格外すぎるとんでもない物差しで測っていた。
ただ、それがいいことばかりではない。過去のように目盛を誤魔化すして自分の物差しで測るのではなく、社会・上司・友人などあらゆる自分を取り巻く人によって作り上げられたであろう規格内の物差しできっちり測り、はみ出した部分を修正するようになっていた。"正確な"物差しは所詮他人が作ったものだ。
このラインより自信を持ってはいけない。(ナルシストだと思われる)
このラインより自分のことを発言してはいけない。(空気を読まなければいけない)
謙虚であることが美学である。(内心はそんな風潮はクソだと思っているが)
そんな"正確すぎる"物差しは自分を削りかねない。
「でもその"正確な"物差しと狂った物差し、両方とも持ち合わせているのがバランスいいしベストだよね!」ということは敢えて今回は書かないようにしようと思う。
ブエナビスタの美しい御御足とクレア・フォーラニの美しい泣き顔を持っていた私は何を隠そう最強だった。実際毎日が楽しかったし充実していた。何事も上手くいっているような気がした。
他人からどう思われようが何も恐れていなかった。きっとその過程でフェードアウトしていった友人もいただろうが覚えていない。
最近歳を重ねたことにより、もっと面白味のある大人でいたいという欲がでてきた。自分を客観視できて、自分に余裕や社会的自信が生まれたからこそ狂った物差しをまた持ちたいと思うようになった。"正確すぎる"物差しが窮屈になった。
勘違いでもいい。自分を輝かせることができる勘違いなんて素敵すぎるではないか。
さすがにブエナビスタやクレアのような的外れな勘違いは痛すぎるのですることはないが、狂った物差しで自分を測って勘違いしていたい。それを現実逃避とは言わないだろう。
時に狂った物差しで自分を測ってみること。これが私の正解だと確信してきた。
その正解だと思っていることが勘違いであったとしても、その勘違いに自信を持って騙されていたい。
自分を騙すこと、自分に勘違いすること。
新たにエンカウントした考えに迷いはない。
騙されていたい、このままずっと。