日常。音楽多め。

佳代と高円寺

私は音楽が好きだ。自分の感情を上手く消化させてくれる。時に気持ちを上乗せさせてくれるし、言語化できない感情を解説して寄り添ってくれる。そしてそれが沢山ある自分の思い出のフォルダのBGMとなり、たくさんの過去の感情を思い出させてくれるからだ。

その中の一つ、GOING STEADYの『佳代』は高円寺に行くたびに口ずさんでしまう。

 

 

この曲を聞いていた当時は高校生だった。素朴な女子高生。地方の田舎にいて、東京なんて憧れの場所。そして歌詞に登場する"高円寺"という街を想像しながら憧れを抱いていた。

 

そしてその当時17歳の時、彼氏がいた。毎日が楽しくて、毎日自転車で一緒に帰って、毎日たくさん話をしていた。リッケンバッカーを背負っていた。重いからと私のリッケンバッカーを持ってくれていた。毎日が幸せだった。2人のためにこの星はまわってるとも思っていた。

 

数ヶ月後、その彼とちょっとしたすれ違いで別れてしまった。今となればなぜあんな些細なことで別れてしまったのかわからない。ふと流れた曲が『佳代』だった。ポータブルMDプレイヤーで『さくらの唄』を聴いていた。毎日取り替えることもなく、延々と『佳代』だけをリピートしていた。悲しみに暮れ、リッケンバッカーの重さが倍に感じた。多感な高校生の時に『佳代』=失恋の曲という概念が埋め込まれた。

 

まだ見たことのない高円寺という街はどんなに素敵な街なんだろうか。夢や希望や愛に溢れていて、それでいて儚く尊い。そんな気がしていた。

 

 

18歳になり、大学進学のため上京してきた。

その後高円寺に初めて降り立った時、17歳の自分が涙を溜めて睨んできた。きっとまだこの時、自分の中で何かを消化しきれずにいたのだろう。『彼女』を直視することができなかった。それもそうだ。消化不良を起こしたまま上京してきたし、失恋からまだ1年ほどしか経っていなかった。

涙を溜めて睨んでいる自分が可哀想だった。

 

高円寺の街並みにはまるで何回も過去に来たことがあるかのような懐かしさを感じた。17歳の時に想像していた高円寺と幾分差異はなかった。(自分の想像力はすごい、と思ったが今になって考えてみると自分の想像力ではなく、高円寺の情景を想像させることができる峯田の才能がすごいと気づき、少し恥ずかしい)

 

私は佳代になりきって物思いにふけながら純情商店街を歩いた。

ドイツにも行ったことがなければ色白でもないし、白ブラウスも着ないし、彼氏にビルケンのサンダルをプレゼントしたこともない。想像は自由だ。

 

 

それから20代になり、高円寺に行くことはなかった。特に自分から行きたいとも思わなくなり、憧れの街は次第に渋谷や表参道、代官山などになっていった。どんどん垢抜けて東京に染まっていく自分に高円寺は似合わないとまで思ってしまっていた。(何という勝手な偏見)

17歳の失恋のことなんて思い出すこともないまま社会人となった。『佳代』も次第に聴かなくなり、むしろ多感な時期の辛い思い出が蘇るし、恥ずかしいから聴きたくないとまで思うようになった。いわゆる黒歴史認定をしていた。

 

 

 

 

そして数年が経ち、32歳になった。先日久しぶりに高円寺に向かった。

するとまた高校生当時のあの頃の自分が涙を溜めて睨んできた。

 

思い出すこともないだろう、聴くこともないだろう、と思っていた曲を自然に口ずさんでいた。そして懐かしむ気持ちで、微笑みながら高円寺を歩いていた。

 

涙を溜めて睨んできた17歳の自分ですらも微笑ましかった。

 

あの頃の自分があったから今の自分がいる。小さな思い出や経験を全て肯定できたから笑えたのだろう。あの頃の自分を抱きしめて慰めてあげることができた。

 

 

まだ『さくらの唄』は自宅にある。ただ、どこにしまっているかははっきりとはわからない。今はサブスクリプションで『佳代』を聴いている。

名前をつけて保存していた曲と思い出は15年後にアップデートされた。

 

 

 

こうやって私は音楽と共に生きている。それぞれの場所、思い出にBGMとなってリマインドしてくれる。

 

きっとまたいつか高円寺に降り立つ時も涙を溜めて睨んでいる自分がいるだろう。

 

次も微笑んで見れたらいい。また抱きしめてあげれたらいい。微笑んで見れるということは今の自分が幸せだからだ。